「インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第2話。前回の記事はこちらです。この連載を通じてインターネット広告の歴史をナビゲートしてくださる佐藤康夫さんが、旭通信社(現:株式会社ADKホールディングス)の国際部に配属された当時の様子を振り返ります。
1982年に、新卒で旭通信社に入社して国際部に配属されました。当時の旭通信社は大手広告代理店に比べて売上規模は小さかったはずですが、上場までしていますよね。国際部の主な仕事内容と、躍進の理由を教えてください。
旭通信社は、他の広告代理店が成長の停滞に悩む中、私が入社してから毎年業界内での順位を上げ続けてきました。その要因の一つは、自社よりも下位に位置する代理店から、優秀な社員をチームごと引き抜き、かなり自由に仕事をさせていたことだと思います。給料は低いものの、経費や業務の裁量を社員に任せていたため、腕に自信のある猛者たちが集まっていた印象があります。
1982年、国際部の中村局長のチームに配属される
佐藤:僕が当時国際部に在籍していた時の局長は中村さんという方でした。ずいぶん前に亡くなられてしまったのですが、早稲田大学の拳闘部出身で、関西弁で短気で強面に見える一方、海外通でインテリな感じもする人でした。英語も特別上手なわけではなかったのですが、なぜか話が通じてしまう。広告業界で働く前に、会社を起こして失敗した経験もあったそうで、起業家気質な人でした。
僕が旭通信社に入社して中村さんのチームに入ったら「あんた外語大? ふざけんな!」と絡んできて(笑)。「俺のチームに来たら2つ約束を守ってもらうからな」と言い「30歳前に結婚はするな」「3年間は夜8時前に帰るな」と。今聞くとパワハラですよね(笑)。
杓谷:それは現代の価値観からすると強烈ですね(苦笑)。
佐藤:中村さんは元々は亜細亜広告社に在籍していたのですが、旭通信社に引き抜かれる形で転職してきたそうです。転職の際、旭通信社以外の大手広告代理店からも声がかかっていたのですが、転職の条件として「同僚の◯◯と◯◯も一緒に連れて行くことを条件にしてくれ」と言ったところ、大手広告代理店は部下までは採用しなかったので、チームごと採用してくれる旭通信社に移籍したそうです。一緒に連れてきた部下も大活躍していましたね。強烈な言動とは裏腹に、実は親分肌で面倒見の良い人だったんです。
「30歳前に結婚はするな」「3年間は夜8時前に帰るな」というのも、今になって思えば一理あるな、と。「30歳前に結婚はするな」というのは、若いうちは仕事に集中した方が良い。「3年間は夜8時前に帰るな」というのは、最初に色々詰め込んでおいたほうが後々楽だということ。これらは彼の経験に基づく持論だったのだと感じました。
三菱自動車工業を旭通信社のナンバーワンクライアントに押し上げる
佐藤:中村さんは早朝に出社して、社長にいろいろ企画を差し込むタイプで、もうキレキレな感じでした。とにかく強烈にかっこいい人で、僕はとても尊敬していました。
中村さんは、その昔「これからは自動車だ」という信念があって、三菱自動車工業の前身にあたる三菱重工の自動車部だった頃からアプローチして、PR誌の仕事などを取ってきていました。自動車部が後に独立して三菱自動車工業になると、海外展開を支援するためにオフィスをヨーロッパに作り、北米を除く全世界向けのカタログ制作、印刷、デリバリーが可能なシステムを構築するなど、三菱自動車工業の成長を献身的に支えていました。その結果、全車種、北米を除く全世界向けの広告宣伝を旭通信社が一社で引き受けることになり、三菱自動車工業は国内での扱いも含めて、旭通信社のナンバーワンクライアントになりました。
旭通信社の企業規模では、海外向けの広告制作に必要な優秀な外国人コピーライターを雇うことが難しかったため、彼は自ら制作会社を設立し、2〜3人ほどの外国人コピーライターを雇い入れました。さらに、デザイナーも一緒に採用しました。最初はほとんど会社の支援なしで、中村さんが自力で進めていたと記憶しています。
中村さんの尽力を三菱自動車工業もよくわかっていたので、他の大手広告代理店はなかなか入り込めず、「プレゼンすらさせてもらえなかった」と聞いています。当時の僕から見ると、中村さんはすごくカッコよくて、“絵に描いたような広告代理店の営業マン”という感じでした。中村さんだけでなく、一緒に働く仲間達も相当癖の強い猛者たちが集まっていて実に刺激的でした。
中村さんの活躍に比べると、僕は社会人歴も短く経験も少なかったので、「もっと成長しなきゃダメだな」と思ったものです。中村さんの活躍に加え、会社全体も勢いがあり、僕が入社して5年目には、旭通信社が広告代理店として初めて上場を果たしました。僕も少しですがストックオプションをもらっており、その「少し」が思いのほか大きな金額になったことで、「これが株式会社のダイナミズムなんだ」と実感したものです。上場後、それまでの役員たちは次のチャレンジを求めて退職し、僕は「こうやって会社は新陳代謝していくんだな」と、上場の持つエネルギーを肌で感じました。
国際部に配属されて使うようになった“テレックス”
杓谷:インターネットがない時代に海外とのコミュニケーションはどのように行っていたのでしょうか? 私は1984年生まれなのですが、インターネットが普及する前の海外との仕事の仕方をうまく想像することができません。当時の国際部での具体的な仕事のやり方を教えていただけますか。
佐藤:国内向けのクライアントに対しては、新聞・テレビ・雑誌などの広告を掲載するメディアをプランニングします。一方、国際部は海外向けの新聞、雑誌などへの出稿プランニングなどはあったものの、カタログの制作やイベントのサポートなど、セールスプロモーション的な仕事が中心でした。
カタログの制作といっても、僕が担当していた三菱自動車工業の場合は北米を除く全車種・全世界を対象にしており相当な量と種類がありました。カタログ制作だけでも人が張り付きになります。その他にも、海外で開催されるモーターショーへの出展準備の仕事もありましたが、アメリカはアメリカで独自にやっていたので、ヨーロッパやアジア、中東、アフリカをメインに仕事をしていました。
当時のオフィスでは「テレックス」という機械を通じて海外とのやりとりを行っていました。テレックスというのはタイプライターのような機械で、文字をタイピングするとメッセージが点字のような形で表示されます。そのデータが海外に送られて、海外のテレックス機械で印刷されるわけです。
FAX・メールなどない時代。イギリスのオフィスとは、電話かテレックスでやりとりをしていました。当時、テレックス担当の女性がいて、送りたいメッセージを彼女に渡します。すると彼女がそれをタイプライターで打って送信します。翌日の朝には、返信のメッセージが点字形式で印刷された紙テープが散乱しているわけです。その紙テープを機械に通すと、テキスト形式でメッセージが読めるようになります。今では信じられませんが、そういったやり方で海外とコミュニケーションを取っていました。
日本のテレックス担当者は午後6時で帰宅してしまい、それ以降は自分でテレックスを打たなければなりません。最初は慣れていないので人差し指で、一文字ずつタイプしていましたが、だんだんと両手でタイプできるようになっていきました。僕がキーボードを両手で打てるようになったのは、この時のテレックスのおかげかもしれません(笑)。
仕事のほとんどは固定電話で
佐藤:当時、「仕事」といえば「電話」でした。電話以外にコミュニケーション手段がないので、とにかく電話がかかってきます。驚くことに代表電話が会社に1つしかない時代。電話がかかってくると社内のオペレーターが「国際部の佐藤さんお電話です」と社内放送でアナウンスをして呼び出します。すると、僕は社内の電話でダイヤル9を回して「佐藤です」と出るとオペレーターが「◯◯社の◯◯さんからお電話です」と取り次ぎしてもらい仕事をしていました。電話呼び出しの社内放送は四六時中行われていましたね。
オペレーターを介する電話の取り次ぎは不便な面も多く、次第に直通電話を部署に置くようになっていきました。机の上に少し高い台を置いて、電話を置きます。電話がかかってくると、「誰がその電話を取るのか」という押し付け合いが始まります(笑)。しかし、電話の取り次ぎは若手の仕事だったので「佐藤です」といって電話に出て「部長、お電話です」と、つなぐわけです。これが僕の新人時代の仕事でした(笑)。
当時は、旭通信社が三菱自動車工業を独占して担当していたので、張り付きで対応していました。「サウジアラビア向け◯◯車種の左ハンドルを50部」「カタール向けに60部」なんてことを電話で発注します。毎日、世界中の発注をすべて電話でやり取りし、管理していました。
ですから、三菱自動車工業の待合室には、旭通信社の社員が必ず誰か常駐しているわけです。先輩に「おい佐藤、◯◯さんどんな感じかちょっと見てこい」と言われて、僕は用事もないのに三菱自動車工業の待合室まで見に行くわけですよ。「〇〇さん、ちょっと今日は機嫌が悪そうです」なんて先輩に報告したりしてね(笑)。
三菱自動車工業の待合室には大きなテーブルがあって、旭通信社以外にも、写真関連の会社や印刷業者などさまざまな業者が待機していて、発注が来るのを、今か今かと待っていました。
「16面マルチスライド」でのプレゼンテーション
佐藤:私が三菱自動車工業を担当していた時期だけでも、海外出張で20カ国近く訪問しました。たとえば、ヨーロッパでディーラー向けに新車を発表することになった場合、その発表に使う車の写真素材から準備する必要があります。当時、パソコンは高価な割に性能が低く一般的でもなかったので、プレゼンテーションには「16面マルチスライド」という仕組みを使っていました。セル画のようなものをカートリッジに入れると、コンピューターで制御されてカシャカシャカシャっと画面が切り替わってアニメーションのように動画風に見えるものです。当時は、そういったプレゼン方法が主流でした。
佐藤:プレゼンテーション用の素材は、たいてい発表会ギリギリまで完成しません。印刷物やカタログなどの配布物もあるので、ダンボール10個ほどに詰めて手持ちで海外まで運んでいました。現地に到着するとバンを手配し、荷物を積み込みます。飛行機では荷物を多く持ち込むことがあるので、融通が利くビジネスクラスを利用していました。到着後はホテルのセミスイートに宿泊しますが、その一部屋が荷物置き場になるんです。そういった仕事を多くこなしていましたね。
新車発表会は大抵ヨーロッパのリゾート地で開催されるのですが、プールがすぐ下にあるのに一度も入れない、という少し切ない経験もありました(笑)。
印象に残っているのは、たとえばノルウェーの古都ベルゲン。美しい港町で、船上で海賊料理のパーティをした記憶が特に鮮明です。
あとはオランダの避暑地とか。旭通信社はイギリスにオフィスがあったので、ロンドンにはよく立ち寄りました。新車発表会をカリブのバハマで開催したこともあります。当時を振り返ると、非常に大変でしたがいろいろな海外に渡航できたのは、今になって思えば良い経験でした。
次回は10/17(木)公開予定(隔週木曜日更新)です。
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オリジナル記事:「旭通信社」が大手代理店と肩を並べられた理由と中村局長との出会い[第1部 - 第2話] | インターネット広告創世記 ~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~
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